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町医者への転進
03「アル昏」熟成期
町医者への転進
三度目の辞表提出
「起きろよッ、西ッさん。もう誰もいないよ。」揺り起こされて、ハッと目が覚めた。黒檀の座卓に突っ伏して、いつか眠っていたらしい。せっかく良い気持ちで寝ているわしを起こす無粋なやつは、どこの誰だ。大きな男が分厚い掌を私の肩に置いて顔をのぞきこんでいる。なんだ、高松じゃないか。だが今日は彼と一緒になった覚えはない。
段々、正気づいてきた。酔眼朦朧であたりを見回す。十二畳の和室、厚い絹地の座布団が数枚、そうだ、ひさごだ。横浜日本橋の料亭である。
「下で、お内儀に聞いたんだ。かみさん、困っていたぜ。あんたが寝込んじゃったんで、女の妓は帰ったし。」いったいどうしたの、と眼で問い掛けている。私は苦笑いして子細を思い出した。県を辞めて一週間、目下、市内の朝倉病院内科に勤める身である。
夕方、駅前の最近馴染みとなった酒場で一杯やっているうちに、気が大きくなった。たまには独りで女の妓でもあげて騒いでやるか。近く退職金も入るし、懐は暖かい。そうなると、矢も盾も堪らずタクシーを飛ばして来たというわけだ。
「寄り合いがあってね。下にいたんだ。弟のヤツが迎えに来ている。送ろう。」と、高松は柔道五段の力で私を立たせる。彼は学校薬剤師のボスで悪童会の仲間でもある。私の辞任を惜しんでいる一人だ。粋人だから今日の私には何も言わない。
昭和三十七年六月、私は神奈川県教育委員会学校保健技師を辞任した。
学校保健、自分が生涯の仕事と思い定めていたものと訣別することは、身を切られる思いであった。最後の辞表を提出するまでの数カ月、私は夜の巷をさ迷い歩いた。やがて仲間が勘づいた。彼等は私に忍耐を要請したが、私はそれを受け入れるには若すぎた。そして三度目の辞表を提出した。
「どうしても辞める気か。」総務課長、後の逗子市市長三島虎好氏が言った。
「役人稼業がいやになりました。聴診器を握ります。」
「お医者さんにそう言われちゃ止めようがないな。」彼は嘆息して、大きな駄々っ子の顔を見つめていた。
聴診器をぶら下げて
昭和三十七年九月、初代神奈川県衛生部長村山午朔、県教育委員湯本アサ、思師小川義雄教授、お三方の名で「西郊文夫君を励ます会」がY校同窓会館で催された。参加者百数十名、初め
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