07断酒への道

妻の立上がり

断酒への助言を求めて
 アルコール依存症者を身内に持つ家庭の悲劇は枚挙に暇がない。たとえ忌まわしい社会的事件を起こさなくとも、家庭内は常に暗く、楽しい語らいは絶えてしまっている。日を追って家庭の崩壊が進んでゆく。ましてそれが一家の主ともなれば、その影響は計り知れない。家族すべての心身の破綻、経済の危機、一家の離散は決して誇張ではなく現実に白日下に起きているのだ。妻の立場は悲惨の一語に尽きる。そして離婚の筆頭にアルコールがある。
 昭和五十九年の師走、歳末のあわただしいなかを、いよいよ表面化してきた私のアルコール障害について、妻は神奈川県精神衛生センターを相談に訪れた。センター長石原先生は、磯子に神経科クリニックを開設している杉原先生を紹介してくださり、妻はそこで抗酒剤のシァナマイドの服用を教えられてきた。その服用は結局実現しなかったが、彼女が私のアルコール依存症に対して前向きに考え始めた最初である。越えて六十年の二月、妻は今度は東京都三鷹市にある国立療養所久暇浜病院長河野裕明先生のお宅を訪ね、懇切な御指導を受けた。それが若草病院長渡辺豊先生のお計らいによる、先生自らの運転での夫婦共々の久里浜訪問となったのであるが、アルコール依存症の悪化しつつあった時期における私の頑なな心は、人々の善意を曲解して話半ばに飛び出すという非礼な行動を取らしめたことはすでに述べた通りであるが、顧みて慙愧の念に堪えない。
 外での飲酒、泥酔、記憶喪失が重なるにつれて、妻はその対応に懸命とならざるを得なかった。連日酒場から、動けないようだから迎えに来て欲しい、との苦情の電話が殺到し、そのつど迎えに行く。タクシーを呼び、正体を失っている私の重い体を飲み仲間の助けを借りて何とか車に乗せ、頭を下げて飲みしろを払い、連れ帰って寝かせるまでの苦労と惨めさは、さぞ辛かったに違いない。先生をこんなにしたのは貴方のせいだと、口には出さないが態度で示した酒場の女将もいたそうだ。妻に対する故ない批判は身内からもあった。離婚を真剣に考えたこともあったらしい。だが妻は私に面と向かって離婚話を持ち出したことは一度もなかった。思えば私は幸せな男ではある。

 再び妻のメモ。
「六十年六月二十二日、深夜二時半、車庫の中に寝ている。」
「同 二十四日から七月三日、毎晩迎えに、くたびれた。」
「同 七月四日、今日から迎えにいかぬ。出入りはげし。」
・・・


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