01「アル昏」こと始め

貧乏学生時代

 衛研カクテル
「おい、西郊、いいものを飲ませるから来いよ。」級友の吉田が私を誘った。連れて行かれた所は、学校の裏を流れる中村川の対岸にある神奈川県立衛生研究所の、古びた建物の三階の検査室である。旧制中学の化学の教科書の挿絵にある、ラポアジェの実験室みたいなところだ。試験管やフラスコ、ビーカー、アルコールランプ等か雑然と散在している。彼はここで研究所長の児玉博士の仕事を手伝っているのだ。昭和二十二年春、付近はまだ横浜大空襲の焼跡も生々しく、ガラス戸越しには川の水面を鴎が数羽群れ飛んでいる。私達は、昭和十九年に創設された横浜市立医学専門学校の一回生で、四年生ともなれば、授業の合間を利用して将来身に付けるべきいろいろなことに手を出しているのだ。私も生理学の教室に顔を出している。
 隅の椅子に腰を下ろして私は、吉田が怪しい手つきで何やら調合し、液体をコップに注ぎ分けるのを好奇の眼で凝視している。どうやら飲物ができたようだ。
 「これは特製の衛研カクテルだ。」飲めよ、と吉田がコップを私の方へ押してよこした。ハハァンと頷くものがあった。目下、あちこちの研究室で流行っているものの一種である。医学研究用に配給されたエチルアルコールを流用して様々な工夫、たとえば紅茶の葉、苦味チンキ、味のもと、砂糖等を加え加熱し、濾過してアルコール飲料を作り出す。それに教室の名を冠して解剖カクテル、細菌カクテルなどと、聞くからに身の毛のよだつ名称を付けて楽しんでいる。これがそれだ。
 「いけるぜ。」吉田はコップを取り上げてうまそうに一ロ啜った。釣られて私も恐るおそる口に運んだ。苦いッ。臭いッ。むかッとして、思わずペッと吐き出した。喉が焼けつくようだ。「何だい、こりやぁ。」
 「合わなかったかなぁ、お前には。」吉田は、半分予期したような、そしてがっかりした顔で言った。「うん、俺にはこっちの方かいい。」私は手を伸ばして、机の上にあった干し柿を取った。
 「この方がありがたい。ごちそうさん。」
 「中隊長にはカクテルは無理だったか、所長は飲んだがなぁ。」吉田はまだ諦めきれないように、さらに一ロ啜った。その時私はまだ酒というものをロにしたことがなかったのだ。ちなみに、中隊長とは当時の私の渾名である。入学したとき仰せつかった生徒代表の名称が、そのまま愛称となっていた。この吉田は、いまは夫婦で小児科医として東京で盛業中である。
 戦後の食料不足は多くの悲喜劇を生んだ。酒も無論例外ではなかった。酒不足に付け込んでヤミ酒が横行した。悪質なものには、戦時中航空燃料に用いられたメチルアルコールが大量に放出
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