05「アル昏」狂騒曲 前奏

アルコール出血性胃炎

最初の吐血
 五十二年六月、起き抜けに胸もとヘグッと込み上げるものがあった。診察室の流しにぺッと吐いた。あか黝い凝固しかかった血であった。続けざまに盃二杯分の量であった。さほど驚かなかったのは、余り痛みを伴わなかったからである。私は反射的に手で脈溥を触れていた。正常であった。たいしたことではない。胃粘膜の部分的な出血で、少なくとも潰瘍ではない。自己診断をして、ともかく安静に如かずと寝室で横になった。妻に命じて止血剤と胃散を服用する。そのうち治まるであろう。ところが昼までに数回吐いた。少しおかしいな。妻が心配し始めた。「幡谷先生をお願いしましょうか。」幡谷君は二級後輩で、小川教室の仲間、消化器学を専攻し、根岸で開業している。拙宅からは二十キロの地点である。かなり遠い。足労を掛けるのも気の毒だ。だが不安には克てない。結局電話をかけた。すぐ飛んできた。彼は手早く診察するなり、その場で小川先生に報告した。先生から県立成人病センターの倉俣君に指令が行った。夕刻には私はセンターの病室に臥床していた。主治医はもち論倉俣君である。
 倉俣君は胃カメラ(内視鏡)が専門でその操作は名人級である。診察所見は胃粘膜の浮腫、び爛、出血で、アルコール性出血性胃炎と診断された。内科的に治療が可能である。絶食あるのみで、栄養補給のための輸液が中心である。更に下血がかなり多く、貧血を来たしたので輸血も同時に行うこととなった。手洗いに行くと確かに大便は黒いチョコレート色、つまりタール便を呈している。
 治療が始められた。朝九時から白衣姿も颯爽と倉俣君が現れて、甲斐甲斐しく腕をまくり上げ、血管への注入針を刺す。これは規定によって医師の仕事となっている。時を見計らって空瓶を看護婦が交換に来る。一瓶が空になる時間は概ね二時間近くでその間なすことは何もない。退屈の一語に尽きる。これが延々と続き、終るのは夕方の七時頃となる。そのなかに輸血も入っている。もどかしい日々が流れた。
 八日目から重湯による食事療法が開始され、輸血も終り、二週間で輸液はすべて終了した。ようやく難行から解放された。周囲や窓の外を見渡す余裕ができた。

 九年後に私は再び出血性胃炎を起こす。意外であったのは、肝臓の機能がそれほど悪くなかったことである。アルコールという魔物は神出鬼没に人体を侵す。私の場合は最初がたまたま胃であったということである。一月半後、私は成人病センターを退院した。
 「先輩は少し控えたほうが良いですよ。」倉俣主治医の忠告と激励とを受けて、あらかじめ
・・・


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