Ⅲ(00)

C・W氏長女

いつからだろう、父の楽しい酒が「悲しい酒」に変わったのは。おとなしい父が大声で怒鳴り、泣き崩れる母……
 私の父は、私が幼い頃から酒を飲んでいました。でも、軽い晩酌の頃は「楽しい」酒でした。私は父が大好きなので、父と一緒に「民謡」を習い、どこに行くにもついて行き、宴会等にも参加しましたが、ほろ酔い加減の父はとても楽しそうでした。いつからだろう……「楽しい酒」が「悲しい酒」に変わってしまったのは……いつもはおとなしい父が大声で怒鳴り、泣き崩れる母、叩きつけられて粉々になった食器、私は幼い弟と一緒に震えていました。
 両親の喧嘩というのは、子供心にかなりの影響を与えていたと思います。私は母が家出をしてしまう夢と、どこか暗いところに残される夢を見て泣いたものでした。この夢は今でもよく覚えています。
 成長した私は、よく父とけんかをしました。酔いつぶれて大の字になっている父に水をぶっ掛けたこともありました。酔ってさ迷っているところを、警察の世話になり家まで連れて来てもらった時は、何て情けないのだろう……と恥ずかしくなったものです。
 それでも、私にとってたった1人の父親です。何とかこの「酒地獄」から助けてあげたいと思い、母に協力して何度も病院に入れました。私より母の方が何十倍もつらいのがわかっていたから、余計に力になりたかったのです。もし家族みんなが、父なんてどうなってもいいと思ってしまったら、見捨ててしまっていたら、父は生きていなかったかもしれません。
 病院に入って酒が切れると、いつものやさしい父にもどって帰ってこきます。だけどまたしばらくして、一口でも酒を飲むと病院に逆もどりするほどひどくなり、同じことの繰り返しです。それでも父を立ち直らせるために、父の目に付くところには酒を置かないようにしたり、父が隠しておいた酒をみんなで探し処分しました。でも酒びたりの父は、早朝からパジャマのままで酒を探しはじめ、すごい時には墓地に供えてある酒を飲んでしまったことさえありました。夜中に何度も父を探しに行ったこともありました。
 「アルコール中毒のまま死んだら、酒に負けて死んだといわれ、よくなれば酒に勝ったと言われる。どっちにしても一生酒という言葉がついて来るのなら、みえなで頑張って立ち直らせてあげたい!」と母は涙を耐えて言っていました。みんなの努力と願いが通じたのか、断酒の期間も少しずつ長くなり、体調もよくなり、私の結婚式にも元気に出席できるようになっていました。
 しかし喜んだのも束の間、1年もしないうちにまた酒に負けてしまったのです。私は父に言いました。「このまま酒を飲んでいたら本当に死んでしまうよ! 私に子供ができたら、お父さんはおじいちゃんになるんだよ! 孫を抱きたくない? まだまだ楽しいことがいっぱいあるよ!」と。
 その後、父はまた病院に入院しました。私と母にとって最後の賭けでした。誰でも病院生活は嫌なものです。特に父のように「アルコール依存症」で何度も入院している者にとって、二度と来たくない場所だったと思うので、酒が切れた後に父が母を恨まぬように、私は1通の手紙を書きました。内容は覚えていませんが、私が病院に連れてきたということ、みんなが父を心配していること、そして誰よりも父のことを思っているのは母だということを書いたと思います。
 退院後、父は断酒会に入り変わっていきました。つらく悲しい思いを
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