荻窪近辺

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8西郊雑記

荻窪近辺

荻窪近邊
 省線荻窪駅の近くでは二十何年間も住まつていたが、すぐ裏側の井之頭線三鷹台駅の方へ移つてから早くも三年過ぎてしまつた。時々荻窪駅の近くを通る度毎に、益々賑やかに発展する駅前通りの賑やかさに目を丸くするのであつた。
 駅前のマーケットの食堂や果物屋が見る見る中に立派な店飾りをつけて、本物の繁華街にかわりつつある有様はいつ行つても故里のような親しみをもつて眺めるのであつた。
 ある正月のこと、幾月か写生旅行に行つてかえつて来た間に、駅前のマーケットが焼けて黒い焼ぼつくいがいちめんに取ちらかしてあつたのか見てあつけに取られたことがあった。それがそのまま広場になつて今の乗合バスの停留場に変つてしまつた。広場になると人や車の混雑の集散でいつぱいになりあの焼跡の以前にマーケットがあつた方が不思議な気がする程である。兎も角一日一日めまぐるしく変転する荻窪風景を考えると驚くばかりであつた。
 荻窪復興街が次第々々にふくれ上つて、パチンコのジャラジャラという音の中に、新宿や渋谷あたりとは行かず共、中野駅位にはいつか追越す、乗降りの人口の密度になつて来たのではあるまいか。
 荻窪マーケットのことを書いていたら、急に昔荻窪へ引越して来た頃のことを思い出して来た。昭和五年頃のことであつた。
 夜私の家の二階へ上ると荻窪駅の灯りが見えて、この周囲は森と空地ばかりであつた。駅のプラットホームから雑草の中を斜めに横ぎつて来ると、私の家の入口ヘ出てしまつた。すぐ目の前の土手の上には空の電車が退屈そうに列んでいた。「ア、あんな処に西洋館があるな」と思う間に、がたん、がたんと動き出したのではじめて気がついた程だつた。
 ここは森の中の一軒家で、見渡す限り雑木林で、もとは大弓場であつた。丁度私の家のまん中あたりが弓を引く場所で、私が探しに来た時は遠いつき当りに、盛り土がしてあつて白い三重丸の大小の標的が幾つか列んでいた。矢場とその標的との間に木立の日影が縞のように沢山流れて青空が晴れていた。それは秋のことでここらいちめん薄とコスモスが盛りであつた。私はその頃八王子の市内のまん中に住んでいたから郊外のしんとした森の中の風景には格別心を惹かれたのであつた。いつか夜になり二階から眺めた松林と、櫟の梢の長くつづいた山脈のような枝々の先きから、月の上るのを見ていたら家よりは景色の方に心を惹かれたわけであつた。その晩が特に美しい月夜だつた為めかもしれなかつた。
 それから後、家のうしろヘアトリエを作つた。
 普請をやりかけて年末から春先へかけて、よく大雪か降つた。雪が降る度毎に二階の窓から郊外の雪景色を写生した。その頃、写生したすぐ近くの垣根の縁に植えてあつたひよろひよろした細い木立が、荻窪を引揚る頃は見上げるばかりの堂々とした大樹になつていたが、その当時の写生画が出て来たので始めて気がついた程であつた。新しくアトリエの壁が塗れて、明るい陽の光りが天井のガラス屋根に射し、ストーブの燃える静かな音をききながら、モデルの肌を写生しているのは楽しいものであつた。


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