ゴッホのアトリエ


2心象風景

ゴッホのアトリエ

ゴッホのアトリエ
 ヴァンサン・ヴァン・ゴッホ(一八五三~一八九〇)はオランダの牧師の家に生れた。十六歳の時ハーグ市で美術商を営んでいた伯父の許へ行き、次いで巴里、ロンドンの美術商に勤務した。しかし、その頃から人道的な情熱に燃えていた。彼は間もなく美術商を止め、宗教学校に入り卒業後炭坑地方で臨時牧師の地位を得たが、あまりに純粋すぎて容れられず止めることになつた。彼が両を描き初めたのはその頃からである。彼が巴里へ出て来たのは三十三歳の時一八八五年のことである。
 最初の間は細い筆触で太陽の光に輝く風景両などを印象派風に描いていた。しかし、三年の後には早くもそれから脱して南フランスのアルルの田舎町へ移住している。これから後がゴッホの燃えるような製作が続いた時代で、驚くべきその熱情の作品となつて多くの向日葵の図が生れ、太陽の輝く色彩や、アルルの道路などの風景画がゴッホの体力まで焼きつくす程に連続的にすばらしい勢で爆発して来た、とでもいうべきだつたろうと思う。そして、ついに精神的な発作を起こすことも度々であつた。ある時などは巴里から招いたゴーガンにコップを投げつけたり、剃刀で斬りつけようとしたりしている。
 一年半ばかりアルルの病院で治療と監視を受けた後、一八九〇年にはオーヴェル、シウオルアズの医師の許に預けられ、其処でピストル自殺を遂げてしまった。
 しかし、ゴッホには終始愛情をもつて援けていた愛弟テオドルがありその力に慰められて、激情のほとばしるままに自分の製作に没頭出来たわけであつた。
 ゴッホが巴里へ来てからの期間がほんの僅かで、しかもその晩年のアルルにおける三年程の間に、世界の近代美術史上に輝く特異な存在が無数な傑作を残していることになる。
 日本の画壇でも今から三、四十年前、丁度今日で云えばマチス、ピカソが一般大衆の言葉の端にも乗るように、ゴッホやセザンヌの名が若い文芸を愛する青年の間に潮のようにひろがつて、その頃の文学や美術雑誌又は展覧会などもセザンヌ、ゴッホの一色にぬりつぶされた様な気がした。始めは雑誌「白樺」の紹介によるカが大きかつたわけである。黒白の複製写真によつて私共は、その荒々しい大幅の筆触の盛り上りの陰影に、大きい感激を寄せて興奮したのであつた。その頃の美術画学生は、汚れた絵具だらけの上衣や赤いルパシカという服を着たり、トルストイ、ドストイエフスキーに感激しながら、下宿の二階の机の上でビール壜や赤い林檎を並べながら、ゴッホ、セザンヌの夢を一緒にして遠い憧れに心を躍らせていたのであつた。斎藤与里、岸田劉生、木村荘八の諸氏によつてヒューザン会か出来た時、ゴッホ、セザンヌを画学生たちはごく身近に感じた様な気かしたらしい。
 その後二科会が開催され、それまでごくよそ行きのきらびやかなお化粧で飾られた文展だけで賑わつた日本の美術界に、一つの新しい潮流が日本の若い美術愛好者たちの心をゆすぶったのである。特異なゴッホの生涯なとが、純情を慕う多くの人々の胸をうち、美術が清く貧しく澄んでいろような人選主義的な思想が魅力になつた時代で、ゴッホは、一層典型的に眺められたのかもしれなかつた。その後多数の色刷りが来るようになり原作の何点かが我国にも到来して、その強烈な色彩の輝きと、たくましい表現の筆触に今更ぐいぐいと引き入れられたのであつた。
 近くゴッホの展覧会が日本でも開催されるとのことで、私共は待望してやまない次第である。今日フランス現代美術のはんらんの中にいて、今更ゴッホの仕事をかえり見ることは意義が深いことと思う。ゴッホは日本の浮世絵を愛したらしく、その作品の中に度々錦絵をかきこんだり、額に入れたままを模写したりしたのが数点あるらしい。ゴッホに限らずその当時のフランス美術に、日本の浮世絵は素晴らしく驚異の眼をよせたものらしい。暗く重い伝統の中に影も日向もつかない端的に鮮やかな線と色彩の浮世絵が特別に好奇心をそそつたのも無理がなかつたように思われる。
 ゴッホの部屋をかいたこの作は一八八九年の作とあるから、死ぬ前年のものである。この狭いフトリエの小さい寝台でゴッホがどんな夢をむすんでいたのであろうか。
 「まるでここは日本のようだ」という手紙を弟へ書いたこともあるので、その夢の中に日本の景色が浮んで来たこともあるのかもしれない。それを思うと一寸微笑ましい気かするのである。


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