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01「アル昏」こと始め

酒の修行は野毛の街

 Y校理容美容科の講師
 医師としての私の目標は、臨床医家ではなく生理学研究にあった。医学生時代を通じて、公私に渡ってお世話になった生理学教室の小川義雄先生の強い影響によるものであった。事実、私の生涯は、小川先生によって導かれたと言っても過言ではない。
 「西郊、一緒に生理学を勉強しょうよ。」誰もいない実験室でのひと時、ふと真顔になって言われた先生の一言が私の一生を決定づけた。爾来、今日に至るまで、私の心は先生と共にある。昭和六十年十月、小川先生は万斛の恨みを私達に残して逝ってしまわれたが、ご遺影は今も私の診察室の壁にあって常に私を見ておられる。
 医師国家試験に合格して臨床と基礎研究のいづれを志しても、すぐ給料にはありつけないのが当時であった。その後私は南中学校を退職したが、再び生活のために教師の道を選ばなければならなかった。Y校理容美容科の講師として、理容師、美容師の卵たちに人体の生理、解剖、公衆衛生等を教えるのである。ここではクラス担任ではなかったので、時間はたっぷりあった。余暇の時間は精力的に母校の生理学教室へ通った。程なく、小川先生は、金沢区の校舎に体育医学教室を創設されて移られたが、そこは私の住居に近いので通学に便利になった。私はその頃も時折、高橋さんや中西さんに誘われて、桜木町付近の野毛の街へ浩然の気を養いに出掛けていた。内山さんも一緒であった。その頃には町にも酒や食料がようやく出回っていて、下町はどこも活況を呈していた。横浜の野毛は、東京の新橋や渋谷と並んで盛り場として有名になっていた。
 その野毛町の一角、桜木町駅の下に、戦災の焼跡を利用して「桜木デパート」と称する大飲食場かできていた。木造総二階建ての、上下併せて五十軒はあろうという和洋とりどりの酒場街であった。連日連夜人々が殺到し、町の復興はここから始まった。当時市長も県知事もこっそりここを訪れたとの噂が流れたりした。私もやがて好みの店ができてそこを溜り場とするようになった。しだいに酒の味と、雰囲気に酔う楽しさとを覚え、独身の気安さと度を過ごさなければ月に数度通う程度の余裕もボチボチできた。

 課長と野毛のおでんヘ
 ニ十六年、新春早々私は小川先生に呼び出された。「西郊、君に行ってもらいたい所があるんだ。考えた結果、是非、君に行って欲しいんだ。」藪から棒の勧奨であった。神奈川県教育委員会の学校保健課長に成田功という小川先生の慈恵医科大学の同級生がいて、若い医師を一人求め
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